放射線・放射能の発見から第二次大戦がはじまる頃まで—原論文を辿りながら—From the Discovery of Radiation and Radioactivity to the Beginning of World War II—Surveying Original Papers—
京都大学複合原子力科学研究所Institute for Integrated Radiation and Nuclear Sciences, Kyoto University
京都大学複合原子力科学研究所Institute for Integrated Radiation and Nuclear Sciences, Kyoto University
1895年のレントゲンによるX線の発見,1896年のベクレルによる放射性物質の発見からはじまって,1942年に米国の原爆開発マンハッタン計画が開始されるまでの放射線・放射能,原子核に関する研究の歴史を,できるだけ原論文を辿りながら振り返ってみた。私たちには当たり前になっている教科書的知識も,先達たちのあくなき好奇心と努力,それにさまざまなセレンディピティ(偶然的幸運)の積み重ねで築かれてきたことが了解される。
The history of radiation and nuclear sciences has been followed step by step from the discovery of X-rays in 1895 to the beginning of World War II, surveying original papers and materials. It can be seen that our modern knowledge written in textbooks is the product of pioneers’ tremendous curiosity and efforts, together with some serendipity.
Key words: radiation; radioactivity; atomic model; radioactive decay; nuclear fission
© Japan Radioisotope Association 2025. This is an open access article distributed under the Creative Commons Attribution 4.0 International (CC BY 4.0) License (https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/)© Japan Radioisotope Association 2025. This is an open access article distributed under the Creative Commons Attribution 4.0 International (CC BY 4.0) License (https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/)
2011年に福島原発事故が起きてから,放射能,放射線,原子力について一般の方に話をする機会が増えた。「放射能汚染に向かいあうには,まずはベクレルとかシーベルトといったコトバを理解してなじんで下さい」といつも言っているものの,“なじみのないことになじんでもらう”のは,なかなか大変である。いろいろ経験するうちに,放射線,放射能について全く知られていなかった頃からはじめて,私たちがどのように知識を積み重ねていったかを物語風に話をすることが“なじみのないことになじんでもらう”のに有効ではないかと考えたのが,本稿にとりかかったきっかけであった。
一般の方にわかりやすく話をするには,まずはこちらがちゃんとした物知りになっておく必要がある。ということで,レントゲン,ベクレル,キュリーからはじまって,多くの先達たちの業績を原論文に当りながら勉強してみることにした。幸い,原論文はほとんどインターネットにアップされていた。フランス語,ドイツ語といった,私には歯が立たない言語については,PDFをOCR変換してGoogle翻訳して,要点の読み解きを試みた。教科書的に整理された知識の勉強ではなく,先達が何をきっかけにどのような疑問をもち,どのようにして問題を解いていったかを追っかけるのは,結構面白い作業だった。RADIOISOTOPES誌の読者にも興味をもって頂けるかも,と思って投稿させて頂いた次第である。
当初の思惑では,「広島・長崎原爆の完成まで」のつもりであったが,原爆開発はScienceというよりEngineeringの側面が大きく論文情報も少ないので,「第二次大戦がはじまる頃まで」に留めることにした。原子,原子核,電子,アルファ線,ベータ線,ガンマ線,核分裂といったことは,本誌の読者には自明の知識であろうが,それなりの皆様のご参考になるのではと思っている。
1895年,ドイツ・ビュルツブルグ大学の物理学者レントゲン(Wilhelm Conrad Röntgen 1845–1923)は,暗室の中でクルックス管やレーナルト管と呼ばれる真空放電管を用いて陰極線を調べる実験を行っていた。陰極線とは,10−6気圧程度の真空度で放電管に高電圧をかけると発生する淡い発光ビームのことで,陰極と反対側のガラス壁で蛍光を発することから「陰極線」と呼ばれていた。当時,陰極線の正体を巡って,電磁波説と微粒子説とが提唱されていた。あるとき,放電管を黒い紙の筒で覆って実験をすると,傍らの机の上に置いてあった蛍光板が暗い部屋の中で光っているのにレントゲンは気がついた。すなわち,透過力の強い何かが黒い紙を通って蛍光板を光らせていた。蛍光板の前に手のひらを置くと骨の形が透けて写ったりした。レントゲンはその何かを“X線”と名づけて論文に発表した(レントゲン「新しい型の光線について」1895年12月)1)。論文の付録に手のひらの骨が透けて見える写真を添えたこともあって大きな反響を呼ぶことになった。ドイツ語の原論文は直ちに英語に翻訳されて,1896年1月に英国のNature誌2),2月に米国のScience誌3)に掲載された。
レントゲンが,なぜ黒い紙で真空放電管を覆って実験を始めたのかは論文には書かれていない。中崎昌雄氏の解説4)によると,当時のレントゲンは,小さな極薄アルミニウム窓をもつレーナルト管を使って陰極線を空気中に引き出して微弱な蛍光を観察しようとしていたので,余計な蛍光や紫外線を遮蔽するためだったようだ。レーナルト(Philip Lenard 1862–1947)は,自分が贈った放電管で実験をしたのにレントゲン論文に自分への謝辞がないと怒ったという逸話があるそうだ。
1896年,蛍光や燐光の研究をしていたフランスの物理学者ベクレル(Antoine Henri Becquerel 1852–1908)は,X線の発見に刺激され,強力な燐光物質である硫酸ウラニルと硫酸カリウムの複塩(K2UO2(SO4)2)が太陽光の刺激により燐光とともにX線のようなものを発生するという仮説を確認するための実験をはじめていた。写真乾版を黒い布で包みその上にウラン燐光物質の薄板をおいて日光にさらした後に現像すると,確かに感光していた。あるとき,天気が良くないので,ウラン化合物と写真乾板を重ねた実験セットを引き出しにしまっておいた。数日後,取り出して現像してみると,太陽光は当たっていないのに乾板が強く感光していた。ベクレルは,ウランという物質そのものからもX線のように写真乾板を感光させる何かが放出されていることを報告した(ベクレル「燐光体によって発せられる不可視放射について」1896年3月)5)。
ベクレルの発見を引き継いで“ベクレル線”の研究を進めたのは,パリで研究生活をはじめたばかりのポーランド人マリー・キュリー(Marie Skłodowska-Curie 1867–1934)だった。夫のピエール・キュリー(Pierre Curie 1859–1906)は物理学者で,マリーの実験のために空気中におかれた電極板の間をベクレル線が通過する際に発生する微弱電流の強さを測定する装置を製作した。キュリー夫妻は,その装置を使ってさまざまな物質の放射線放出強度を測定し,ウラン化合物と同じく,トリウム化合物もベクレル線を放出していることを見つけた(マリー・キュリー「ウランおよびトリウムの化合物から出る放射線」1898年4月)6)。
キュリー夫妻が注目したのは,金属ウランの放射線強度より,ウラン鉱石の方がかなり大きいことだった。ウラン鉱石の中に,ウラン以外の放射線放出物質が含まれていると考えたキュリー夫妻は,数トンのウラン鉱石(ピッチブレンド)鉱滓を処理して,まず化学的挙動がビスマスに似ている放射性元素を発見し,その元素をポロニウムと名づけることを提案した(ピエール・キュリー&マリー・キュリー「ピッチブレンドに含まれる新放射性物質について」1898年7月)7)。さらに,ポロニウムとは化学的挙動が異なりバリウムによく似た新たな放射性元素を発見しラジウムと名づけることを提案した(ピエール・キュリー他「ピッチブレンドに含まれる新しい強力な放射性物質について」1898年12月)8)。“radioactive”という言葉はキュリー夫妻が使い始めたが,この段階では放射線発生の仕組みは未知であり,彼らは,ポロニウムやラジウムはウラン鉱石に元もと含まれている混在元素と考えていたようだ。
一方,英国ケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所の物理学者トムソン(Josef John Thomson 1856–1940)は1897年,陰極線に磁場や電場をかけて曲がり方を調べる実験を基に,陰極線の正体が負の電荷と質量を持った微粒子の流れであることを示した(トムソン「陰極線」1897年10月)9)。その論文でトムソンは,微粒子の質量と電荷の比(m/e)が,水素1グラムをイオン化させるときの電流量を基に得られる水素イオンのm/e比に比べ約1000分の1に相当すること,また電極金属や残存気体の種類に依存しないことを報告している。トムソンは,陰極線微粒子をcorpuscle(小球)と呼んでいたが,負の電気素量をもつ基本粒子として認識されるようになるとelectron(電子)と呼ばれるようになった。
ニュージーランドからキャベンディッシュ研究所にやってきたばかりのラザフォード(Ernest Rutherford 1871–1937)は,トムソンの下でX線やベクレル線の研究をはじめていた。ラザフォードは,ベクレル線には2種類の放射線が含まれ,アルミ箔などで容易に吸収され透過力の弱い放射線を“アルファ線”,アルミ箔ではあまり吸収されない放射線を“ベータ線”と名づけた(ラザフォード「ウラン放射線とそれが引き起こす電気伝導性」1899年1月)10)。一方,オーストリア・ウィーン大学のメイヤー(Stephan Meyer 1872–1949)とシュワイドラー(Egon Schweidler 1873–1948)は,ベータ線に磁場をかけると陰極線と同じように偏向することを示した(メイヤー&シュワイドラー「磁場におけるラジウムとポロニウムの挙動について」1899年12月)11)。
1900年,パリ高等師範学校の化学者ヴィラール(Paul Villard 1860–1934)は,ラジウムのベクレル線から,薄い鉛でアルファ線を除き,さらに磁場を通してベータ線を除いた後にも,直進性で透過力のある放射線が残っていることを発見した(ヴィラール「陰極線とラジウム放射線の反射と屈折線について」1900年4月)12)。1903年,カナダのマクギル大学に移っていたラザフォードは,この放射線を“ガンマ線”と名づけた(ラザフォード「容易に吸収されるラジウム放射線の磁場と電場における偏向」1903年2月)13)。同じ論文でラザフォードは,強い磁場を用いた実験で,アルファ線がベータ線とは反対方向に曲がること,つまり正の電荷をもっていることを報告している。
アルファ線の正体がはっきりするまでには少し時間がかかった。アルファ線は,重さが水素原子の約4倍で,正の電荷が2単位なので,ラザフォードらは正に帯電したヘリウム原子であろうと考えていた。1909年の決め手となった実験では,アルファ線をガラス管に集めて発光スペクトルの分析を行い,ヘリウムそのものであることが確認された(ラザフォード&ロイズ「放射性物質からのα粒子の性質」1909年2月)14)。
X線の正体については,光と同じような電磁波であろうと提唱されていたが,1912年ミュンヘン大学のラウエら(Max von Laue 1879–1960)は硫酸銅や硫化亜鉛の結晶を用いたX線回折像の写真撮影実験を行い,X線が光と同じ電磁波であることを明らかにした(ラウエ他「X線の干渉現象」1912年6月)15)。彼らの研究は,結晶構造中の原子配置をはじめて観察した実験としても知られている。ガンマ線の正体についても,X線と同じく電磁波であろうと考えられていたが,それを直接に観察したのはラザフォードとアンドレード(Edward Andrade 1887–1971)だった。彼らは,ラドン封入線源のRaB(214Pb)とRaC(214Bi)から出てくるガンマ線(とX線)を岩塩結晶に当てて回折像の写真を撮り,さまざまな波長のガンマ線とX線を見いだしている(ラザフォード&アンドレード「ラジウムBおよびラジウムCからの透過性ガンマ線スペクトル」1914年8月)16)。
19世紀最後の5年余りの間に,X線,放射能,電子,アルファ線,ベータ線,ガンマ線と重要な発見が相次いだ。当時,すべての物質は元素ならびに元素の組み合わせでできていて,元素それぞれには特有な原子が存在しているという知見は確立されていた。原子の相対的な重さ,すなわち水素原子の重さを1としたときの他の原子の重さ(原子量)の測定も行われており,ロシアの化学者メンデレーエフ(Dmitrij Ivanovich Mendelejev 1834–1907)は1869年,当時発見されていた63個の元素を,原子量の順に元素を並べると,性質の似た元素が周期的に現れる「周期表」を発表している(メンデレーエフ「元素の原子量と性質との関連」1869)17)。
放射線が原子から放出されていることは明らかだったが,どのようなメカニズムで放射線が発生するのかはミステリーであった。放射能ならびに放射線の正体についての思索と実験を通じて,原子はそれまで考えられていたように不変ではないことが少しずつ明らかになっていく。
ラザフォードは1898年にカナダ・モントリオールのマクギル大学に移り,そこでトリウム化合物から気体と思われる放射性物質が常時放出され続けている現象,いわゆるエマネーション(emanation:放散)の研究を始めた。エマネーション発見のきっかけは,トリウム化合物からの放射線量を空気の電離で測定しているとき,実験室のドアを開けたり閉めたりすると放射線強度が変動することだった。ラザフォードらは,トリウム化合物から新たな放射性微粒子が空気中に放出されているという仮説の基に,横に寝かせた真鍮製円筒の中ほどにトリウム化合物を置き,片方から空気を流して反対側に設置した空気溜まりでの電離量を測定する実験を行った。空気の流れがないときの空気溜りの電流はゼロだったが,空気を流すと電流は増加し,ある程度の時間後に電流値は飽和した。そして,空気の流れを止めると電流値は指数関数的に減少し,60秒で半分になった(ラザフォード「トリウム化合物から放出される放射性物質」1900年1月)18)。流れの途中に脱脂綿を置いたり,水中でバブリングさせたりしてもエマネーションの放射線強度に影響はなかったのでラザフォードは,エマネーションは電気的に中性のガスであろうと推測している。ラザフォードの仕事に刺激されたドイツ・ハレ大学のドルン(Friedrich Dorn 1848–1916)は,ラジウムを用いてラザフォードと同様の実験を行い,ラジウムからもエマネーションがあることを報告した(ドルン「放射性物質から放出されるエマネーション」1901)19)。
マクギル大学に移ったラザフォードにとって幸いだったのは,そこで化学者のソディ(Frederick Soddy 1877–1956)と共同研究を始めたことだった。ラザフォードとソディは,トリウム硝酸塩溶液からトリウムを水酸化物として沈殿させて分離すると,溶液側の微量成分が強い放射線を出していることを発見し,“トリウムX”と名づけている。水酸化物として沈殿したトリウムのエマネーションはほとんど消失し,トリウムXの方がエマネーションを示した。そして,放置しておくと,時間とともにトリウム沈殿物のエマネーション発生能は徐々に回復し,トリウムXは反対に減衰した。また,エマネーションが接触していた場所が放射性を示す,“励起放射能(exited radioactivity)”が観察されたことから,エマネーションからも新たな放射性物質が生成して周囲に沈積すると推測している。「トリウム放射能の観察から,特殊な放射性物質を次々と生み出している一連の複雑な現象を我々は目撃している」とラザフォードらは述べている(ラザフォード&ソディ「放射能の原因と本性II」1902年11月)20)。
ラザフォードとソディは1903年の総説で,放射能,放射線という現象の説明として,“元素の崩壊”という概念を提唱している(ラザフォード&ソディ「放射性変化」1903年5月)21)。つまり,ウラン,トリウム,ラジウムといった放射性元素(原子)は,放射線を放出しながら常に別の元素(原子)に変化している。放出される放射線の強度N(t)は,放射性変化の定数λと元の元素の最初の原子数N0を用いて,N(t)=N0×e−λtと記述される。新たにできた原子が放射性であれば,子が孫になるように,次の放射性崩壊を生じる。ウランやトリウムといった寿命の長い放射性物質は,自然界の中でそのような崩壊系列を形成している。論文では,アルファ線粒子のエネルギー概算値とラジウム1 gの原子数から,ラジウム1 gから放出される総エネルギー量を2.4×107 calと見積もり,ラジウム1 gによる毎秒電離数を基にした年間放出エネルギー量1.5×104 calを根拠に「ラジウムの‘寿命’は2, 3千年以上ではあり得ない」と述べている。
ラジウムはおそらくウランの崩壊生成物であろうと考えられた。そこでソディは,まずラジウムを分離した硝酸ウランを1 kg作成し,1年後にその硝酸ウラン中に精製したラジウム量をエマネーション測定法で求めようとした。理屈上は5×10−7 g程度のラジウムが生成するはずだったが,結果は検出限界(10−11 g)以下だった(ソディ「ラジウムの一生」1904年5月)22)。「ウランとラジウムの間に中間体があるのかも知れないが,ラジウムの親元素はウランではないかも知れない」とソディは述べている。一方,米国のボルトウッド(Bertram Boltwood 1870–1927)は,米国5カ所のウラン鉱石を取り寄せ,鉱石粉末を加熱酸分解しながらエマネーションを捕集してエマネーション電離量とウラン量との比を比較すると5つのうち4つは数%の範囲で良い一途を示した。残りのひとつが15%小さかったのは平衡が崩れていたのだろうと述べている(ボルトウッド「いくつかの鉱石におけるウランとラジウムの関係」1904年5月)23)。
ラジウムの生成源が確定するには紆余曲折があったものの,その過程でウランやトリウムの崩壊経路にはさまざまな崩壊生成物が介在していることが明らかになった。ソディは1913年の総説(「放射能」1913)24)で,放射性元素がアルファ線を放出すると周期表の位置が2つ小さな元素族に移って原子量が減り,一方,ベータ線を放出するとひとつ大きな族に移るという法則性,ならびにある崩壊系列や異なる崩壊系列の中に化学的に分離不可能な放射性元素が現れるのは,原子量が異なった同じ元素が混じり合っているためだと述べている。つまり,アルファ線を放出した後に,続けて2回ベータ線を放出すると,原子量は小さくなったものの元の元素族に戻る。そのような考察を基にソディは,原子量238のウランを出発点とし原子量206の鉛を最終生成物とするウラン系列,原子量232のトリウムを出発点とし原子量208の鉛を最終生成物とするトリウム系列の崩壊図を描いている(原子量239出発点とするアクチニウム系列も示しているがこちらは不正確)。
ちなみに「半減期」という用語の起源をネットで調べると,1907年にラザフォードが使い始めたとなっていた。ラザフォード論文集25)をチェックしてみると,1905年に‘Time to be half transformed’という言い回しが出てきて,1907年に‘Period of half transformation’が使われていた。
放射能,放射線の正体が少しずつ明らかになるにつれ,放射線は原子の構造を調べるためのツール(道具)としても用いられるようになった。そのきっかけになったのは,マンチェスター大学に移っていたラザフォードの研究室のガイガー(Hans Wilhelm Geiger 1882–1945)とマースデン(Earnest Marsden 1889–1970)による1909年に発表されたアルファ線散乱実験だった(ガイガー&マースデン「アルファ線の広がった反射について」1909年5月)26)。彼らは,ラドン封入管からのアルファ線を,金や鉛などの金属箔に当てて,わずかながら金属箔から跳ね返ってくるアルファ線があることを硫化亜鉛(ZnS)発光スクリーンのシンチレーション光で観察した。それまで,原子は電気的に中性の粒子であり,負の電荷を持つ電子と,電子の数と同量の正の電荷が含まれていると考えられていたが,原子がどのような構造であるかは実証されていなかった。電子の発見者であるトムソンは,正の電荷が一様に分布している球形の基質(素地)の中に電子が点々と存在している“ぶどうパン”原子モデルを提唱していた(トムソン「原子の構造について」1904年3月)27)。ぶどうパンモデルのように,原子の中に万遍なく電荷が分布している場合には,電子に比べてはるかに重たいアルファ線が大きく散乱して戻ってくることは考えがたく,ガイガーとマースデンの実験結果は予想外だった。ラザフォードは,原子の中心に(正または負の)電荷が集中しているモデルによって実験結果を説明した(ラザフォード「物質によるα線およびβ線の散乱と原子の構造」1911年5月)28)。“原子核モデル”のはじまりであある。論文の中でラザフォードは,正の電荷をもつ原子核のまわりを多数の電子が回っているという“土星型”モデルを提案した長岡半太郎(1865–1950)の論文(「発光スペクトル線と放射能現象を説明する粒子構造の力学について」1904年5月)29)にも言及している。
ラザフォードによる原子モデルを発展させたのが,デンマークの理論物理学者ボーア(Niels Bohr 1885–1962)だった。1913年の論文でボーアは,元素に特有な発光スペクトルを説明するために,各電子は「跳び跳びの電子軌道」に入っているという概念を提唱した(ボーア「分子と原子の構造について」1913年7月)30)。中心の原子核には,周期表の番号(原子番号)と同じだけの正の電荷があり,電気的に中性の原子では,同じ数の電子が原子核の回りの跳び跳びの軌道に入っている。光や熱で原子がエネルギーを受けると,電子が軌道の間を遷移してある決まったエネルギーの光を吸収したり放出したりするという原子モデルである。ボーアの原子モデルは,それまで不明だった発光スペクトルのメカニズムを水素原子についてうまく説明できた。
周期表の原子番号を決定しているのは原子核の正電荷の数であるというボーアの原子モデルを実証したのは,ラザフォードの弟子のモーズリー(Henry Moseley 1887–1915)だった。モーズリーは,各元素に特有なエネルギーを示すX線(特性X線)の測定結果を整理して,Kα-X線の周波数の平方根が(原子量ではなく)原子番号の増加とともに直線的に増加することを見いだした(モーズリー「元素の高周波スペクトル」1913年12月)31)。その論文でモーズリーは,ボーアの原子モデルやラザフォードらの実験結果を引用しながら,原子番号とはその元素の原子核が示している正電荷の数であろうと述べている。
原子核の正電荷の正体は何だろうか。それまでの実験から,水素の原子核と同じものであろうと予測されていたが,それを実証したのもラザフォードであった。1919年,所長としてキャベンディッシュ研究所に戻っていたラザフォードは,窒素ガスにアルファ線を照射して,水素の原子核と考えられる粒子が発生するのを観察した(ラザフォード「α粒子の軽い原子との衝突:IV窒素中での変則的効果」1919年6月)32)。この実験は,最初の人工的な核変換実験として知られている,次のような反応を観察したものだった。14N+α→17O+p。pは陽子(プロトン)と名づけられ,原子核の正電荷を構成する粒子として認知されることになる。
原子核についての残る問題は,原子量と原子番号との違いをどう説明するかであった。原子核が見つかった当初は,「すべての元素の原子核は“水素の原子核”(陽子)と電子で構成される」と考えられていた。つまり,原子番号8の酸素の原子核は“16個の陽子と8個の電子の複合体”と想定されていた。そうした中でラザフォードは1920年,「原子核には電気的には中性の粒子が含まれている」という仮説を提唱している(ラザフォード「原子核の構造」1920)33)。電荷をもたない中性子を観察することは困難だったが,1932年,ラザフォードの弟子のチャドウィック(James Chadwick 1891–1974)が間接的な方法でそれを成し遂げた。それまで,アルファ線をベリリウムにあてると正体不明の粒子が発生し“ベリリウム線”と呼ばれていた。チャドウィックは,ベリリウム線をパラフィンに当てて,はじき飛ばされて出てくる陽子を観察した。その陽子の運動エネルギーを調べて,ベリリウム線が陽子と同じ重さで電荷のない粒子,つまり中性子であることを確認した(チャドウィック「中性子の存在」1932年6月)34)。
中性子の発見に20年ほど先立つ1913年,ウラン系列やトリウム系列の放射性崩壊の研究をしていたポーランドの化学者ファヤンス(Kasimir Fajans 1887–1975)とイギリスの化学者ソディは,一連の放射性物質の中に,重さ(原子量)が異なるものの化学的に分離できず周期表で同じ場所に位置するものがあることをほぼ同時に別々に報告している(ファヤンス「放射性崩壊と元素の周期表」1913年1月)35),(ソディ「周期表の法則と放射性元素」1913年2月)36)。そうした放射性物質をソディは,周期表の同じ位置(元素)にありながら原子量が異なるという意味で,“同位体(isotopes)”と名づけた(ソディ「原子の内部電荷」1913年12月)37)。ファヤンスやソディと同じ頃,電子の発見者であるトムソンは,真空管の中でネオンの正イオンを磁場で偏向させると2つに分離すること,つまり,ネオンという元素に原子量20のネオンと原子量22のネオンという“安定同位体”の存在を発見した(トムソン「陽極線」1913年6月)38)。トムソンの弟子のアストン(Francis Aston 1877–1945)は,電場と磁場を用いて荷電粒子を分離する質量分析の技術を発展させ,塩素や水銀などの元素が安定同位体の混合物であることを明らかにした(アストン「同位体と原子量」1920年7月)39)。
中性子の発見に至り,同位体とは「原子核中の陽子の数が同じで中性子の数が異なるもの」と判明した。レントゲンによるX線の発見から40年近くを経て,放射能,放射線の正体,原子と原子核の構造の概略が明らかになった。
1935年,米国シカゴ大学で独自に質量分析の研究をしていたデンプスター(Arthur Dempster 1886–1950)は,ウランには質量数238以外の同位体として質量数235が少量,238に比べて1%以下含まれ,それが鉛207まで崩壊するアクチニウム系列の親核種ではないかと報告している(デンプスター「ウランの同位体組成」1935年8月)40)。1939年1月,ハーバード大のニール(Alfred Nier 1911–1994)は,3種類のウラン含有鉱石を使ってウランの同位体比を精密に測定し,ウラン238/ウラン235=139(±1%),ウラン238/ウラン234=17,000(±10%)という値を報告している(ニール「ウラン同位元素の組成と半減期」1939)41)。
中性子は電荷をもたないので,容易に原子核に吸収されて新たな同位体ができる。中性子の発見によって,放射能の研究は一気に拡がった。1934年,イタリアの物理学者フェルミ(Enrico Fermi 1901–1954)のグループは,さまざまな原子核に中性子をあてて新しい放射性同位元素を作る実験を行っていた。あるとき,同じ実験を大理石の台の上で行った場合と木製の台の上で試みた場合で生成物の放射線強度が異なることに気づいた。木製の方が大きかったのだが理由を考えあぐねていたとき,フェルミはふと思いついて,線源とターゲットの間にパラフィンを置いてみたら,放射線強度がはるかに増加した。水を置いてみても同じことが起きた。アルファ線でベリリウムを叩いて出てくるできたての中性子は,高速で大きなエネルギーを持っているが,水素を含んでいるような物質と衝突すると,エネルギーが落ちて低速になる。フェルミらは,こうした低速中性子の方が中性子反応を起こしやすいことを発見した(フェルミら「中性子衝撃で生成する人工放射能II」1935年4月)42)。
イタリアでは1922年,ムッソリーニが首相の座に着いて,1929年からファシスト党独裁体制となった。一方ドイツでは,1933年,ヒットラーが政権につくと国会議事堂炎上事件をきっかけにナチスへの『全権委任法』が作られナチス党独裁体制が作られた。ムッソリーニとヒトラーとの仲は,当初は良好ではなかったが,1936年からのスペイン内戦,1938年のミュンヘン会談などを経て盟友関係となり,イタリアでもユダヤ人迫害がはじまった。フェルミは夫人がユダヤ人だったので,1938年のノーベル賞受賞式の機会に一家は米国へ亡命した。
ドイツでは,化学者のハーン(Otto Hahn 1879–1968)と物理学者のマイトナー(Lisa Meitner 1878–1968)がウランに中性子を当てて新たな同位体を作る実験をしていた。ウランは自然界で原子番号のもっとも大きな元素であり,うまくすればウランより大きな元素,超ウラン元素を発見できる可能性があった。マイトナーはユダヤ人だったがオーストリア国籍だったのでユダヤ人排斥法の適用を免れていた。しかし,1938年3月のオーストリア併合にともない身に危険が迫ってきたのでスウェーデンに亡命した。
ハーンはベルリンで,ウランに中性子を当てた後にアルファ崩壊を2回起こして生成するはずのラジウムの分離実験をやっていたが,奇妙なことに悩まされていた。「ラジウム」は他の元素とは容易に分離できたもののバリウムと分離できなかった。ハーンは結局,現象の解釈はできないまま,生成したものはラジウムではなくバリウムであるという論文を1938年暮れに投稿する(ハーン&ストラスマン「ウランの中性子照射によって生成されるアルカリ土類の同位元素の検出とその振る舞い」1939年1月)43)。マイトナーは,スウェーデンでのクリスマス休暇先でハーンからの論文草稿を受け取った。そのときマイトナーのところにはたまたま,甥でデンマークのボーアのところで研究をしていた物理学者のフリッシュ(Otto Frisch 1904–1979)がクリスマスを一緒に過ごしに来ていた。ハーンの発見をめぐっての二人の議論の中から“原子核の分裂”という着想が生まれた。クリスマス休暇からデンマークに戻ったフリッシュは,1939年1月3日にボーアに会って,ハーンらの実験とウラン原子核分裂説を説明したところ,「私らはなんてバカだったんだ!」と言ってボーアはすぐに理解したという。
ハーンの論文は1939年1月6日のドイツの専門誌に出版された。一方,「中性子によるウランの崩壊:新たなタイプの核反応」と題するマイトナーの短報44)は2月11日に,「中性子照射による重い原子核の分裂に関する物理的証拠」と題するフリッシュの短報45)は2月18日に,どちらも英国Nature誌に発表された。マイトナーは,92個の陽子をもつウランの原子核が2つに割れたら,電気的な反発力による断片の運動エネルギーは約2億電子ボルトとなり大変なエネルギーが解放されるだろうと見積もっている。また,フリッシュは,電離箱中のウランに中性子を当てて,核分裂片の電離作用によりアルファ線より10倍以上大きな信号が発生することで核分裂の現象を確認している。しかし,いずれの論文でも,2次中性子の発生や連鎖反応についての議論はない。
フリッシュから核分裂説を聞いた4日後の1939年1月7日,ボーアはベルギーの物理学者ローゼンフェルト(Leon Rosenfeld 1904–1974)と一緒に船で米国へ出発し16日にニューヨークへ到着した。船中でボーアは核分裂発見につてローゼンフェルトに語り,ローゼンフェルトはニューヨークに着いた日の夕方にプリンストンでの勉強会で核分裂発見の報告をした。そして,核分裂発見の話は瞬く間に全米に,そして世界中に広まった。
ウラン核分裂のニュース以前から,中性子による核分裂連鎖反応の可能性を考えていたのは,ハンガリー生まれの物理学者シラード(Leo Szilard 1898–1964)だった。シラードは英国に亡命していた1933年9月,「核変換によってエネルギーを手にしようというのは月影について語るようなものだ」というラザフォード講演の新聞記事に反発して,「中性子を衝突させて,2個の中性子が飛び出すような反応が見つかれば,ある大きさの塊で連鎖反応を起こすことができる」というアイディアを思いついたと回顧している(伏見康治 訳「シラードの証言」1982)46)。シラードが最初に考えたのは,ベリリウムを中性子で照射する反応(9Be+n→24He+2n)だったが,エネルギー的な利得のないことがじきに判明した。
核分裂連鎖反応が起きるかどうかは,中性子とウランとの核分裂反応の起こし易さを示す“断面積”と,核分裂を起こした際に新たに中性子がいくつ放出されるかという“2次中性子発生数”にかかっている。理論的には,原子核中の中性子数と陽子数の比の大きなウラン原子核が割れると,中性子数と陽子数の比が小さな原子核ができるので,余分な中性子が放出されるはずである。
英国から米国に移っていたシラードはウラン核分裂の話を聞くとただちに2次中性子発生数の実験を始めた。イタリアからニューヨークに移ってきたばかりの中性子の専門家フェルミも違う方法で実験をはじめた。シラードらとフェルミらの実験結果はともに1939年4月15日のPhysical Review誌に発表され,どちらも核分裂当り約2個という結論だった(シラード&ジン「低速中性子のウランとの相互作用にともなう高速中性子の瞬間放出」1939)47),(アンダーソン他「ウランの中性子衝撃にともなう中性子発生」1939)48)。一方,キュリー夫妻の娘婿でフランスの物理学者ジョリオ-キュリー(Frédéric Joliot-Curie 1900–1958)も,マイトナーらの論文を読んで核分裂連鎖反応の可能性を見抜き,2次中性子の実験をはじめ,1939年4月22日のNature誌に核分裂当り3.5個という結果を発表した(ハルバン他「ウランの核分裂で解放される中性子の数」1939)49)。ジョリオ-キュリーの同僚のペラン(Francis Perrin 1901–1992)は,核分裂連鎖反応を実現するために必要なウラン量(いわゆる臨界量)の理論的な見積もりを行い天然ウラン40トンという値を報告している(ペラン「ウランにおける連鎖的核変換の条件に関する計算」1939年5月)50)。フェルミとシラードは,核分裂にともなう中性子発生数の検証実験の延長として,天然ウランと普通の水(軽水)とを組み合わせて連鎖反応を実現するための実験に共同で取り組みはじめた。核分裂で発生する高速中性子を軽水によって減速させ,核分裂しやすい低速中性子にして,次の核分裂を起こさせるというやり方である。1939年夏までに,水素による中性子の吸収が邪魔になって天然ウランと軽水の組み合わせでは連鎖反応の成立は難しいと判明した(アンダーソン他「ウランにおける中性子発生と吸収」1939年8月)51)。
1939年9月にボーアは核分裂に関するそれまでの知見と理論をまとめた総説を発表した(ボーア&ウィーラー「核分裂のメカニズム」1939)52)。その中でボーアは,ウランに対する核分裂断面積を低速中性子で2~3 barn(バーン),高速中性子では0.5 barnという見積もりを示している。(“断面積”というのは,ある核反応の起こりやすさを“的の大きさ”,つまり原子核の投影面積として表したもので,1 barn=1×10−24 cm2である。核分裂断面積,散乱断面積,吸収断面積といったように核反応ごとに断面積値がある。)そして,低速中性子による核分裂は同位体存在比が0.7%のウラン235によるもので,存在比99.3%のウラン238は低速中性子では核分裂を起こさないと述べている。この場合,ウラン235の低速中性子に対する核分裂断面積は300から400 barnという値になる。
核分裂発見の情報は日本の物理学者にも程なく届いていた。いち早く研究に取り組んだのは,理化学研究所の仁科芳雄(1890–1951)のグループと京都帝大物理学教室の荒勝文策(1890–1973)のグループだった。京都帝国大学の萩原篤太郎(1897–1971)らはウランの核分裂にともなう中性子発生数について2.6個という実験結果を1939年のうちに報告をしている(萩原「熱中性子照射によるウラン爆発にともなう中性子の解放」1939年12月)53)。また,理化学研の玉木英彦(1909–2013)と皆川理(1908–1994)は1939年から1940年にかけて核分裂についての総説を日本数学物理学会誌に発表している(玉木&皆川「中性子衝撃に依る重い原子核の分裂」1939)54),(皆川&玉木「中性子衝撃に依る重い原子核の分裂II」1940)55)。玉木らの論文には,連鎖反応の可能性についての考察はあるものの,原子爆弾についての言及はない。
シラードは,1933年に核分裂連鎖反応を着想したときから,ナチスドイツがそうした反応を利用した兵器を手にすることを恐れていた。核分裂の発見により「原子爆弾」の可能性が現実的になってきたことから,ドイツに先んじられることがないよう手を打つべきだと考えはじめ,まず知り合いの物理学者らに核分裂に関する研究結果を発表しないよう説得をはじめた。また,旧知のアインシュタイン(Albert Einstein 1879–1955)を訪問し,ドイツに遅れをとらないよう米国政府も連鎖反応研究を進めるべきだとルーズベルト大統領に進言する工作をはじめた。
1939年9月1日,ナチスドイツがポーランドに侵攻すると,イギリス,フランスはドイツに宣戦布告し第二次大戦がはじまった。アジアでは2年前の1937年から日中戦争がはじまっていた。米国はまだ参戦していなかったが,ルーズベルト大統領はイギリスや中国を積極的に支援する政策をとっていた。アインシュタインの手紙56)の日付は1939年8月2日であるが,仲介者ザクスが実際に大統領に手紙を渡したのは10月11日だった。大統領はザクスの話を聞いて,部下に検討するよう指示を出した。こうして「ウラン諮問委員会」が生まれた。アインシュタインの手紙は,核分裂が発見されて人工的な連鎖反応に成功する可能性があること,うまくすれば爆弾に応用できるかも知れないこと,ウラン資源の確保が大事なこと,ドイツでも研究が進められているようだ,という内容だった。手紙を下書きしたのはシラードで「船に積んで爆発させれば港を破壊できる」と書かれているように,爆弾というより原子炉を爆発させるというイメージだった。
軍の技術者も参加したウラン諮問委員会は,爆弾については懐疑的だったが,とりあえず基礎研究を進める必要を認めて,フェルミが中心になって進めていた天然ウラン原子炉の研究に資金援助を決めた。フェルミとシラードは,水(軽水)をあきらめた次の中性子減速材候補として黒鉛に目を付けていた。ウラン諮問委員会の支援を得て天然ウランと黒鉛による核分裂連鎖反応の実験が進められた。
1938年のクリスマスにマイトナーと一緒に“核分裂”を着想したフリッシュは,第二次大戦がはじまる直前にデンマークから英国のバーミンガムに移っていた。フリッシュは,低速中性子によって連鎖反応に成功したとしても,核反応の進行速度が遅いので爆弾にはならないことを理解していた。核分裂で発生した高速中性子が他の原子核と散乱を繰り返して低速になって次の核分裂を引き起こすまでに1ミリ秒かかると予測された。そのような速度だと,核分裂が十分進む前に装置が飛び散ってしまい,通常の爆弾と変わらない爆発で終わってしまう。
フリッシュは,同じくナチスを逃れてドイツからバーミンガムに来ていた物理学者パイエルス(Rudolf Peierls 1907–1995)と一緒に連鎖反応に関する理論的検討をはじめた。そして,天然ウランからウラン235を分離し,ウラン235だけで高速中性子反応を行う場合のみ爆発的な連鎖反応が可能になると結論した。存在比が0.7%のウラン235を残りのウラン238から選り分けることはとんでもなく大変な作業になる。1940年3月に2人がまとめた覚書(フリッシュ&パイエルス「ウランの核連鎖反応に基づいた超爆弾の構築について」1940)57)では,約5 kgのウラン235を用いた核分裂爆弾の爆発力はダイナマイト数1000トンに達するだろうと見積もっている。
フリッシュ・パイエルス覚書を受け取った英国科学界の重鎮らは,ことの重大性を認識し研究者を集めてMAUD委員会と呼ばれる特別委員会を設置して超爆弾の可能性を検討した。超爆弾の実現可能性は,高速中性子に対するウラン235の断面積の値とウラン235の分離濃縮方法にかかっていた。1941年3月,米国の研究者から断面積に関する新たなデータが伝えられてきた。そのデータはウラン235による超爆弾が十分に可能なものであることを示していた。中性子の発見者チャドウィックは,「1941年春のことを覚えている。あのとき私は,核爆弾は単に可能なだけではなく,避けられないものだと悟った」と後に述べている。ウラン235の濃縮には「熱拡散法」と「ガス拡散法」が検討され,ガス拡散法が有望と考えられた。1941年7月にまとめられたMAUD委員会報告58)では,ウラン爆弾は実現可能であり,11 kgのウラン材料を用いた爆弾の威力はTNT火薬18キロトンに相当し,この戦争において決定的な結果をもたらすだろう,と述べられている。
ウラン爆弾が可能であるというMAUD報告書は直ちに,米国の科学研究開発庁(OSRD: Office of Scientific Research and Development)に送られた。それまで米国政府としてはウラン爆弾計画には消極的で,米国科学アカデミー(NAS: National Academy of Sciences)が核分裂の利用に関して作成した2つの報告書では,連鎖反応のエネルギーを動力源として利用する発想が優先されていた。MAUD報告を踏まえてOSRDの責任者だったヴァネバー・ブッシュは,米国科学アカデミー(NAS)に対して新たな報告書を作成するよう要請した。コンプトン(Arthur Compton 1892–1962)を委員長とするNASウラン委員会は1941年11月6日付けで第3報告書59)を提出し,「ウラン235を用いた爆弾は可能であり,ウラン濃縮については遠心分離法とガス拡散法が実際的な試験の段階に入りつつある」と述べている。
ブッシュは11月27日にNAS第3報告書をルーズベルト大統領に届けた。ブッシュはそれ以前の10月9日にもルーズベルトに会って英国のMAUD報告について説明している。ルーズベルトがいつの段階で決定を下したかは定かでないが,この時期に米国の原爆開発は,「研究から開発へ」と転換した。12月6日,ブッシュは関係する専門家をワシントンに集め,ウラン研究を再編し原爆開発に取り組むことを伝えた。そして翌日の12月7日,日本軍の真珠湾攻撃により米国も第二次大戦に参加することになり,原爆開発も一挙に活性化することになる。
その頃すでに,米国のカリフォルニア大学バークレイの放射線研究所では,ローレンス(Ernest Lawrence 1901–1958)が開発したサイクロトロンを中性子発生装置に用いて,ウラン235以外の原子爆弾材料候補であるプルトニウム239に関する研究が進められていた。ウラン238が中性子を吸収して生成する超ウラン元素の核分裂可能性については,1939年のボーアらの総説においても考察され,英国やドイツの研究者もその可能性を検討していたが,彼らには実験的に検証する手段はなかった。1941年3月,バークレイ研究所のシーボーグ(Glenn Seaborg 1912–1999)らは,ウラン238を中性子照射して得られた94番元素(プルトニウム239)がウラン235以上に核分裂性であり,原爆材料として有望であることを見出していた60)。ウラン爆弾とともにプルトニウム爆弾の開発を進めることになった。
米国の原爆開発が,陸軍工兵隊直轄の秘密プロジェクト「マンハッタン計画」として本格化するのは1942年の夏だった。「マンハッタン」という名称は,原爆開発のために新たに創設された工兵隊管区の本部が置かれる予定の場所をコードネームとして採用したもので,その“総マネジャー”に指名されたのは,国防省庁舎ペンタゴンの建設に従事し准将に昇進したばかりのグローブス(Leslie Groves 1896–1970)だった61)。「マンハッタン計画」と呼ばれたものの,グローブスの計画本部はニューヨークには移らず,ワシントンの陸軍省から計画の指揮にあたった。
1942年12月2日,シカゴ大学の競技場スタンドの地下室でフェルミらは,中性子減速材である黒鉛約400トンと天然ウラン約40トンのブロックを円柱形に積み上げた実験装置(通称シカゴパイル1号)において核分裂連鎖反応が持続する臨界を実現させた。その成功を受けてマンハッタン計画では,ワシントン州ハンフォードにおいて原爆プルトニウム生産用の原子炉が建設された。
一方,テネシー州オークリッジでは,原爆用濃縮ウラン製造のために,電磁分離法(Y-12),ガス拡散法(K-25)に基づく工場が建設され,さらに高濃縮プロセスに供給する低濃縮ウランを製造するため熱拡散法の工場(S-50)が追加された。
マンハッタン計画の発足から3年後の1945年,7月16日にニューメキシコ州アラモゴルドでプルトニウム爆弾トリニティ,8月6日に広島でウラン爆弾リトルボーイ,8月9日に長崎でプルトニウム爆弾ファットマンと3つの原爆が炸裂した。レントゲンのX線発見から50年後だった。
本稿をまとめていて,放射線・放射能研究に取り組む研究者のスタンスが,ハーンらによる核分裂発見にともなって大きく変わったことを実感した。核分裂の発見まで各国の研究者は,「自然界の謎解き」という課題に自主的に取り組んでいた。しかし,「超爆弾の可能性」が明らかになるや,第二次大戦という時代背景もあり,原爆開発という国家プロジェクトへの協力を強いられることになる。ナチスの核開発を心配して論文発表を控えようというシラードの提案にはじめは反対していたフェルミも,最終的にはマンハッタン計画を支える重鎮となり,1945年5月末に日本への原爆投下を決定した米国政府暫定委員会の顧問科学者メンバーであった。
ハーンらの核分裂の発見の後,原爆開発プロセスにおける最大のブレークスルーは,1940年3月のフリッシュ・パイエルス覚書だったと筆者は考えている。濃縮ウランを材料とする速中性子による爆弾可能性を示したこの覚書は,原子爆弾が理論的思いつきではなく実現可能なものであることを示した。英国MAUD報告から米国NAS第3報告を経て,マンハッタン計画の開始に至るモーメンタムの始点になった。
2024年4月,話題の映画「オッペンハイマー」を鑑賞してきた。よくできた娯楽映画ではあったが,広島への原爆投下のニュースに狂喜するロスアラモスの人々のシーンには「ちょっと待ってよ」と鼻白んだ。心血を注いだプロジェクトの成功にはしゃぐのはわからないでもないが,広島・長崎の原爆の下で数万の人々が瞬時に焼き殺されたということへの想像力は当時のロスアラモスの人々になかったし,ハリウッド映画には必要ないということなのだろう。
ひるがえって,第二次大戦中,日本でも原爆開発の計画があったことは多くの方がご存知と思う。理化学研究所の仁科研究室では陸軍の要請を受けて「二号研究」,京都帝国大学の荒勝研究室では海軍の要請を受けて「F研究」が進められていたが,どちらも実現可能性はゼロというレベルに留まったまま敗戦に至る。広島原爆投下翌日の8月7日,仁科芳雄は大本営の要請で広島への調査に出かけるにあたって「(広島に原爆を投下したという)トルーマン声明が事実とすれば,「二」号研究の関係者は文字通り腹を切るときが来たと思ふ」62)と書き残している。
敗戦後,仁科芳雄は荒川文策とともに,1949年の日本学術会議総会で「原子力に対する有効なる国際管理の確立」を提案している。
本稿をまとめるにあたって参照した,文献リストに入っていない主な著作を以下に示す。
また,個人ホームページ「FNの高校物理」(http://fnorio.com/)の解説は個々の論文の内容を理解するのに参考になった。
今中哲二:研究の実施と原稿の執筆
本原稿に関連し,開示すべき利益相反(conflict of interest; COI)関係にある企業等はない。
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邦訳:山崎正勝,日野川静枝,原爆はこうして開発された,資料1, 青木書店 (1997)
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59) Report to the President of the National Academy of Sciences by the Academy Committee on Uranium. Nov 6, 1941. https://nsarchive2.gwu.edu/nukevault/ebb525-The-Atomic-Bomb-and-the-End-of-World-War-II/documents/001b.pdf(参照2024-9-27)
邦訳(抜粋):山崎正勝,日野川静枝,原爆はこうして開発された,資料2, 青木書店(1997)
60) LANL Home Page, A History of Plutonium https://discover.lanl.gov/publications/actinide-research-quarterly/first-quarter-2022/shining-light-on-a-dark-element/(参照2024-9-27)
61) レスリー・グローブス著,冨永謙吾・実松譲訳,原爆はこうしてつくられた,恒文社(1964)原本:Groves L. R., NOW IT CAN BE TOLD, Harper, New York (1962)
62) 山崎正勝,日本の核開発:1939~1955原爆から原子力へ,績文堂(2011)
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